浅草花やしきの歴史1
花やしきの歴史は古く、1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園として開園したのがはじまりで、120余年の歳月を過ごしています。
当時は、「花屋敷」と漢字表記で、江戸時代は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用されていました。
「花屋敷」の名称については、封建的な当時のことなので、庶民が用いることに非難の声もありましたが、宮様のお声がかりで許されたとのことです。
森田六三郎という人は、宮家の造園をはじめ、向島の花屋敷(現在の百花園)を手がけた作庭の名人として知られ、また漢書の名筆家でもありました。
大正天皇がご幼少のときに来園されたことは、おしのびとはいえ、破格のことでした。
明治に入り、浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定されました。
この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園という感じでしたが、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりしました。

浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになりました。
大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などで話題を呼びました。
関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺しました。
そのため、園内にはいまでも鳥獣供養碑が残っています。

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